livedesuのブログ

りべといいます。ぷよぷよやテトリスを主なタイトルとするゲーマーです。

ゲームと義務感

そこそこ前の話になるが、

久しい知己と飲んだ時、ぷよぷよの話になってこう言われたことがある。

「ゲームなんだから、やりたくないときはやらなきゃいいじゃないですか」

 

 

ぱっとその言葉を投げかけられた時、

(そんなに無責任なことを言うな)という感想を持つ自分と、

(そりゃ当然だしそうあるべきだ)という感想を持つ自分が同居していた。

 

彼も別に嫌味を言いたかったわけではなく、

元はと言えば私がおどけて仰々しく、”ぷよぷよを大変そうにやっている素振り”を見せたのがいけなかった。

彼は彼なりの心配の気持ちを込めて、肩の荷を下ろそうとしてくれたのだ。

 

それでも私はその時、内心ムッとしてしまった。

かつて彼もまた、ゲームにおいてランカーと呼ばれる存在であり、

そんな彼の立場から出た言葉が、ゲーマーの矜持のようなものとかけ離れていたからだ。

 

かといって、もう我々は言葉や態度を荒立てる程子供でもなく、浅薄な付き合いでもない。

その場は当然軽く流して、再度思い出話に花を咲かせた。

だが、彼の言葉は、しばらく私の心に引っかかり、ぽつりと影を落とすこととなる。

 

 

 

ゲームにおいて生まれる義務感・責任感とは、一体なんなのだろうか。

 

 

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かつてゲームが単なる私的娯楽の範疇であった頃。

基本的に、それは”一人の世界”で遊ぶものであった。

精々、友人との遊び方を考える程度で、要求される社会性は従来の遊びとさほど変わりないものだっただろう。

 

少なくとも私は、この”一人の世界”が心地良かった。

『自分が決めたタイトル、自分の決めたルール。』

煩わしい人間関係に悩まされることもなく、適度な達成感を得ることができたから。

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次第に、世界にインターネットが普及し始めた。

徐々に”一人の世界”で遊ぶゲームは”集団の世界”で遊ぶものに昇華されていった。

ネットゲーマーには、集団に適応する程度の社会性が求められるようになっていった。

 

少なくとも私は、この”集団の世界”の社会性、それに伴う義務感を背負うことによって、

他人に認められたいと努力し、何かに本気になり、何かを学んできた気がする。

”一人の世界”にいた世間知らずの境遇故、時に人とぶつかり、いがみ合うことになろうとも。

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さらにプロゲーマー、e-Sportsという概念が誕生して以来、

ゲームのトッププレイヤーとしての社会性は大きく広がりを見せた。

と同時に、その世界を志す者達には、より多くの人格的要素が求められるようになった。

 

少なくとも私は、様々な傷痕を残しながらも、ぷよぷよにおいて一廉の実力者と認知されるようになっていった。

今更ながら、言動に着視される頻度が上がるにつれて、規範であるように心がける頻度も増えた。

自分の積み重ねてきた努力が、更なる大きなステージで認められることは、何よりも嬉しいことだったから。

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ここに挙げた話は、公私に関しての話にも通ずる内容である。

「私」でやってきたことが、いつの間にか段階的に「公」のサイドへ移っていた。

社会性、ひいては義務感・責任感の正体とは、ゲームが発達してきた歴史、ゲーマーが成熟してきた証そのものであった。

 

しかし。

 

実際には、大半のゲームは生計を立てるような仕事に成り得ない。

 

ゲームの社会性のしがらみに囚われ続けて行き着く先が、ささやかな名声のみに過ぎないことを多くのゲーマーは察し始める。

一部培ってきた社会性に感謝しながらも、自らが生きるための手段を探さなければならない。

では、その手段を見つけた後、各々のゲームとの付き合い方はどうすることになるのか。

 

 

………

「ゲームなんだから、やりたくないときはやらなきゃいいじゃないですか」

ぽつり、影がよぎる。 

 

 

その言葉を受けて、

(そんなに無責任なことを言うな)という感想は、中途半端に夢を見てきた自分。

(そりゃ当然だしそうあるべきだ)という感想は、中途半端に現実を見てきた自分。

 

そして、それらの表層の感想の奥には、

(これからゲームに関わることで、誰かに何かを糧にしてほしい、次の夢を託したい)と思う自分がそこにいた。

 

自分がゲームを通じてたくさんのものを得てきたように、

次の誰かにもその経験を糧にしてもらいたいという気持ち。

ゲームが発達してきた歴史を繋いで、今まで成し得なかった大きな舞台やシステムを用意してきたように、

次の誰かにはその夢を現実にしてもらいたいという気持ち。

 

 

この二つの気持ちが未だ生み出す、ゲームに対しての義務感と責任感。

それらについて、自分が満足する結果を得ずに逃避することは、おそらくは自分に対しての裏切りなのだろうと。

そう、考える。

 

即ちこれは、『自分が決めたタイトル、自分の決めたルール。』

少なくとも私は、私の中の”一人の世界”に対して、まだ妥協したくないと思う根っからのゲーマーであるがゆえに。

まだ、ゲームという分野に対しても何かを成したいのかもしれない。

 

 

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昨今においてゲームという言葉と世界は、あまりにも広義になりすぎてしまった。

新たにe-Sportsという括りを設けてもなお、境界の揺らぐ一般層での意識差は抑えきれていない。

 

圧倒的な実力はあるが、”一人の世界”の人間に対して、勝手に周囲が社会性を要求したり、

逆に、”一人の世界”の感覚のままのプレイヤーが、社会性の必要な場に単身飛びこんで火傷を負ったり。

 

当人がゲームの世界で何を目指すのか、どうありたいのか、どうあるべきなのかを度外視することなく、

周囲が適切に配慮、時には指導できる仕組み作りが今後必要なのではないかと、切に思う。

 

 

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「ゲームなんだから、やりたくないときはやらなきゃいいじゃないですか」

そう私に言葉をかけた彼は今、ゲームに対し、ランカーという立ち位置に縛られることのない別分野で、

しがらみから脱した”一人の世界”でゲーム本来の楽しみ方を模索している。

それはそれでまたゲーマーとしての、本来あるべき姿……なのかもしれない。